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警固屋の地名の由来

警固屋は、旧安芸郡警固屋町にあたり、1928年(昭和3年)4月1日に警固屋町は阿賀町・吉浦町とともに呉市に合併されました。

警固屋の地名は、平清盛の音戸(隠渡)の瀬戸工事の際、その食小屋(けごや)[飯場]があったことの遺称だそうで、食小屋(けごや)から警固屋への文字の転化は、毛利氏が音戸の瀬戸を扼す当地に警固の武士を駐屯させてから「警固屋」というようになったとか。

2007年度社団法人呉青年会議所ウェブサイトに警固屋に関するおもしろい話が出ているので紹介します。
 
 
2007年度社団法人呉青年会議所ウェブサイト


・・・・警固屋五丁目にある警固屋支所の上方尾根部にはかつて警固屋堀城という警固屋氏の居城が存在した。警固屋氏は山本氏、檜垣氏と共に呉衆とよばれた小領主連合を形成し、室町時代を通じて、西国一の守護大名であり、周防、長門(現在の山口県)を中心に広大な領域を支配下に置いていた大内氏に臣従し、数々の合戦に従軍している。

大永3年(1523年)に尼子経久が大内氏の分国であった東西条の拠点、鏡山城を攻略した際、毛利氏をはじめ、安芸の国人領主たちが次々と尼子方へ寝返ったが、このときでさえも呉衆は大内方に留まっている。大内家と呉衆の間に、私たちの想像を超える強固な主従関係があったことがわかる。

天文9年(1540年)、出雲の守護、尼子経久から家督を継いだ尼子詮久は、対立する毛利元就の居城、郡山城を取り囲んだ。このとき、元就は百万一心を掲げ、領内の民を全て城内に引き入れて籠城し大内軍の救援を待った。この毛利救援軍の一翼を担った小早川興景軍の一員として警固屋小次郎という人物が参戦したという記録がある。また、大内氏滅亡後の永禄13年(1570年)に警固屋市介という人物が、毛利氏の尼子攻略において、牛尾要害攻めを実施した阿曾沼軍の一員として従軍したとの記録も残っている。

これらの記録に接すると、毛利と陶の対立が顕著になった天文23年(1554年)において陶晴賢に味方し、小早川隆景に呉地域を接収されて滅亡したとされる呉衆ではあるが、その後も、警固屋を名乗る人物が毛利軍の一員として活躍していたことがわかる。かつて居城があったとされるあたりから音戸海峡を眺めると、戦国時代に大内氏や尼子氏、毛利氏といった有力大名たちの勢力争いに左右されながらも何とか手柄を立ててその名を後世に残してきた警固屋氏の活躍に想いを馳せることができるのである。


 
 
 
吉本接骨院:呉市警固屋1丁目15-45 お電話0823-28-0360
緑の看板が目印  広電バス「警固屋1丁目」停留所より徒歩1分
全景

警固屋の人口

呉市の住民基本台帳によれば、

平成24年6月末現在
警固屋 2,810世帯  人口5,325人
呉市 111,188世帯  人口239,702人

10年ほど前と比べてみると・・・・

平成15年3月末現在(住民基本台帳による)
警固屋 3,182世帯  人口6,652人
呉市  87,767世帯 人口202,022人

10年前に比べると人口は約1300人減少、世帯数は約370世帯減少しています。

呉市全体は合併のため世帯数、人口とも膨れ上がっているので比べようがないですが、呉市内の1つ1つの町が少しずつ減少している感じがしますね。

それでも警固屋には2,810世帯・5,325人の方々が住んでいらっしゃいますので、その方々の体のケアに貢献したいと思います。
 
 
 
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